第一次世界大戦を簡単にわかりやすく解説  ~原因・内容・終戦~【受験対策】

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今回は「第一次世界大戦をわかりやすく解説」!

今まで、1対1で行われていた国同士の戦いが

世界を巻き込む大戦争へと変わっていきます…

そんな大戦争が起こっちゃうんだ。

いったい何が原因だったのかな?

教えて教えて!

それでは見ていきましょう!

原因・展開・終戦】のステップで!

 

 

過去のプリントはこちらから↓

5分で授業完成!授業プリント特別編★

 

 

 

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授業スライド 【第一次世界大戦編】

 

第一次世界大戦とは

1914年(大正3年)~1918年(大正7年)にかけてヨーロッパで起こった戦争です。

 

ヨーロッパの各国が連合国同盟国に分かれて戦いました。

 

また、アジアやアフリカには独立国が少なく、ヨーロッパ各国の植民地となっていたので実質世界のほとんどの国が参加した戦争になります。

 

飛行機や戦車・毒ガスなどこの戦争で初めて使われた新兵器もあったこと

前線で戦う兵隊だけではなく戦争を遂行するための物資の生産面で女性が活躍したことや

純粋な軍事面のみならず経済力や工業技術力も含めた総力戦であったことが特徴です。

 

第一次世界大戦の原因

 

A:ドイツの野心

1888年ヴィルヘルム2世がドイツ帝国皇帝に就任するとやがてビスマルクと対立。

ビスマルクは失脚します。

 

ヴィルヘルム2世は帝国主義政策を進め、海外植民地の獲得に動きます。

 

今後ドイツの人口が増えていくことが見込まれるので余剰人口を海外へ移住させたかったこと

さらに世論を国内問題から対外問題にそらすことで国内世論の統一をはかろうとしたからです。

 

しかし、ドイツの膨張政策はイギリスフランスとの対立を意味していました。

 

またドイツはオーストリアとの関係を深めるためロシアとの再保障条約を延長しませんでした。

 

一方、ロシアはフランスと接近し、露仏同盟を結びます。

 

こうしてドイツはフランスとロシアに挟まれることになってしまいました。

 

 

B:栄光ある孤立を捨てるイギリス

19世紀末イギリスは南アフリカの植民地で起きたボーア戦争に苦戦します。

 

また、ドイツやロシアなど後進国も力をつけてきたこともあり

イギリスは圧倒的な国力によって維持できた栄光ある孤立に陰りが見え始めてきました。

 

そんな中ドイツはイギリスとは関係を回復しようと努めますが

対ロシア関係で悩んでいたイギリスはロシアとの決定的な対立を避けようとするドイツよりも義和団事件で活躍した日本を同盟相手として選びます。

 

こうして1902年日英同盟が成立しました。

同時にイギリスは栄光ある孤立を捨てたのです。

 

このあとイギリスは1904年に英仏協商、1907年に英露協商を結び、それぞれお互いに現状の勢力圏を認め合いました。

 

もともと結ばれていた露仏同盟と合わせてイギリス・フランス・ロシアによる三国協商が成立しました。

 

 

C:バルカンを巡るオーストリア【独】とロシアの対立

 

バルカン半島はオスマン帝国の領土でした。

 

しかし、オスマン帝国が衰退すると各民族間で独立運動が起きます。

 

この地域にはドイツやオーストリアと同じゲルマン系ロシアと同じスラブ系など様々な民族が暮らしていました。

 

それぞれ自分たちの影響力を強めようとしたため、オーストリアとロシアの間で対立が深まっていきます。

 

1908年オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合します。

 

この地域には多数のセルビア人が住んでいたためにセルビアはオーストリアに反発。

ロシアはセルビアを支持し、オーストリアと間で戦争の危機(ボスニア危機)が起こりますが、同盟国ドイツがオーストリアを支援したことで戦争は避けられました

 

しかし、セルビアの反オーストリア感情は以前残り、対立そのものが無くなったわけではありませんでした。

 

いつ戦争が起きても不思議ではない状態だったので、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれるようになります。

 

直接対立しているのはオーストリアとセルビアですが

オーストリアのバックにはドイツ

セルビアのバックにはロシアがいます

ロシアはイギリス・フランスと同盟関係にあるので、オーストリアとセルビアの間で起きた問題が全ヨーロッパを巻き込んだ戦争に発展する可能性があったのです。

 

 

第一次世界大戦の開始

 

22 クリスマスまでには帰れるさ

 

戦争の原因「サラエボ事件」 

1914年6月8日オーストリアの皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が

ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボでセルビア人の青年に暗殺されるという事件が起きました。

 

祝典の中での暗殺でした。はじめは爆弾を用いての殺害を計画していましたが失敗し、銃での暗殺に切り替え殺害しました。

 

これがサラエボ事件です。

 

事件に対処するため当初は主要国によって外交交渉が持たれ、話し合いでの解決が目指されましたが交渉は決裂。

 

7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦を布告します。

 

このあと、協商国側・同盟国側が次々に宣戦を布告し第一次世界大戦が開始されました。

 

第一次世界大戦の対立構造【協商国×同盟国】

 

独・墺・土などの同盟

英・仏・露・日などの協商国

 

 

① 同盟国

ドイツ帝国・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国

※イタリアは、もともと同盟国でしたが、イギリスとのロンドン秘密条約(1915年)を締結後に三国同盟を脱退し、第一次世界大戦には連合国として参戦

 

② 連合国

イギリス・フランス・ロシア帝国・日本・アメリカ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・中華民国・イタリア

 

第一次世界大戦での日本の動き

 

第一次世界大戦は同盟国と連合国との戦争だったのに、遠く離れた日本がどうして参戦したのでしょうか。

それは1902年に結んだ日米同盟と、中華民国での勢力の拡大を狙っていた日本にとって舞い込んできたチャンスであったことにつながります。

 

 

① 日英同盟

イギリスがほかの1ヶ国と戦ったときには日本は中立を守り、2ヵ国以上と戦った場合はイギリスの味方をするというのが日英同盟でした。だからこそ、第一次世界大戦はイギリスが参戦している時点で、日本は参戦しなければならなかったのです。ちなみに、この同盟は日露戦争でも適用されていて、イギリスは中立の立場をとっていました。

 

 

 

② 中華民国での勢力拡大のチャンス

この機会に中国本土に進出しようと狙いました。そこで、日本がまず宣戦布告した国はドイツ帝国です。名目はもちろん、同盟国であるイギリスと対峙しているドイツの基地を攻撃することです。

そこで、ドイツの租借地であり、ドイツの海軍基地があった山東半島を占領しました。

さらに中華民国に対して日本は「ドイツから奪った山東半島の権利は日本が引き継ぐこと」などを求める二十一か条の要求をつきつけました。

中国では、排日運動が起こり、親日派批判が起こり、第一次世界大戦は日中関係が悪くなる大きなきっかけとなったともいえるでしょう。

 

 

新兵器の登場

第一次世界大戦が長期化し、多くの被害を出した大きな理由は新兵器の登場です。

 

今までは、銃や剣などの武器が主流でしたがこの第一次世界大戦は一味違います。

いくつかの新兵器を紹介します。

 

毒ガス「イペリット」

1917年7月21日からドイツ軍はイープルの攻防戦にまったく新しいタイプの毒ガスを投入しました。

これはびらん剤であり少量でも皮膚に付着すると障害を引き起こすので

防毒マスクは役に立たず、軍馬も被害を受けました。

この攻撃で連合軍は約2万の負傷者が出て戦闘不能となり、ドイツ軍はイープルを占領することができたのです。

ドイツではこの戦果を記念してこの毒ガスをイ-プルに因み「イペリット」と名付けられました。

フランスでもそう呼んだが、イギリスではカラシのにおいがすることから「マスタードガス」と呼ばれました。

 

 

さらに、機関銃が登場したことによって、兵士たちは射撃をしながら前進することができるようになりました。

しかし、この機関銃の登場により戦争は硬直状態となり、各地で塹壕ざんごうがつくられました。

 

 

塹壕(ざんごう、英: trench)は、戦争で歩兵が砲撃や銃撃から身を守るために使う穴または溝である。

Wikipedia 「トレンチ」

 

 

ちなみに、洋服のトレンチ・コートの「トレンチ(trench)」とはこの塹壕のことで、このコートも第一次世界大戦で生まれたアイテムなのです。

 

アメリカの参戦

アメリカはヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉というモンロー主義を取っていました。

 

ウィルソンは1916年の大統領選挙でも中立を訴えて当選していましたが

ヨーロッパでの戦争にドイツが勝利した場合、世界観の違いからアメリカとの対立は避けられない状況でした。

 

それに加えてアメリカが仲介する講和へのドイツの拒否と無制限潜水艦作戦の再開。

 

 

無制限潜水艦作戦

第一次世界大戦のさなか、ドイツ海軍はイギリス海軍による海上封鎖に対抗し、潜水艦(Uボート)による無制限潜水艦攻撃を宣言した。

ねらいは、制海権をイギリスに握られている中、イギリスが輸入に依存している食糧の小麦を商船ごと沈めることで打撃を与えようというものであった。

5月にはアイルランド南岸でイギリスの豪華客船ルシタニア号がUボートに撃沈され

アメリカ人の乗客に犠牲が出たことから、アメリカ国内の反ドイツ感情が強まった。

ドイツはアメリカの参戦を恐れて、いったん無制限攻撃を停止したが、戦局の手詰まりを打開するために、1917年2月からそれを再開した。

 

 

さらにはドイツがテキサスなどをメキシコ領とする代わりにメキシコにドイツ側に立って参戦することを要請していたことがわかり、アメリカ国民の間には反ドイツ感情が高まっていきました。

 

これを受けてアメリカはドイツに宣戦布告します。

 

アメリカの参戦は連合国、特に西部戦線において優位な状況を生み出しました。さらなる兵員の増強と物的支援が得られたからです。

 

第一次世界大戦の終結

 

1918年になると同盟国が次々と降伏

ドイツも降伏したことで第一次世界大戦が終結します。

アメリカが1917年に連合国側についたこともあり、結果として連合国側が勝利を収めました。

 

ドイツの降伏 【ベルサイユ条約】

1919年:パリのベルサイユ宮殿でベルサイユ条約が結ばれます。

ドイツには多額の賠償金が科せられ、日本はドイツが支配していた中国の山東(シャントン)半島などを獲得。

そしてベルサイユ条約締結の場として用意されたパリ講和会議には

日本の代表として内閣総理大臣の西園寺公望(さいおんじきんもち)が参加しました。

また、このときアメリカのウィルソン大統領が提唱した

「民族自決(自らの意志にもとづき自分たちで政府をつくるべき)」

といった宣言に、中国や朝鮮の人々は特に勇気づけられたそうです。

 

 

ゴロ合わせ
1919年 ベルサイユ条約締結

「行く行く(1919)ベルサイユ条約」

 

 

 

国際連盟の設立

 

パリ講和会議では同時にアメリカ大統領ウィルソンが提唱した「十四か条の平和原則」に基づき、国際連盟が設立されることが決められました。

国際平和を願った組織ではあったが…

 

 

問題点:

① アメリカやロシアなどの大国が不参加であったこと

② 全会一致が原則であったため話し合いに時間がかかった

③ 軍事制裁が認められておらず、経済制裁のみであった

 

 

敗戦後のドイツ

 

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でドイツには1320億マルクにのぼる賠償金の支払いが課せられました。

 

日本円では現在の335兆円!!

 

この1320億金マルクはドイツにとって「天文学的数字」であり、ドイツ側の想定では300億金マルク程度を予想していたので、この数字はドイツにとって壊滅的な打撃と受けとられました。

多額の賠償金により国内はハイパーインフレ状態に。

国内の混乱や不満は、第二次世界大戦への火種となっていくのです。

 

 

まとめ

 

 

 第一次世界大戦とは、1914年から1918年にかけて行われた大規模な戦争のこと。

 サラエボ事件で、連合国と同盟国に分かれて戦争が行われた。

 日本は日英同盟を理由に連合国側で参戦。輸出も好調で国内は好景気になった。

 ドイツの降伏で戦争が終結し、講和条約としてべるサイユ条約が結ばれた。

 アメリカ大統領ウィルソンの提唱で国際連盟が設立される。

 ドイツに多額の賠償金を課したことがのちの第二次世界大戦の原因になった。

 

 

 

歴史プリント【第一次世界大戦】

22 クリスマスまでには帰れるさ

23 民主主義を求めて

24 不戦の誓い

25 わきあがる独立の声

 

 

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